トップページ>思い出の鉄道 寸描

汽笛一声新橋を   はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる   月を旅路の友として

会長の鉄道の思い出を本人が文にまとめました。
皆さんも思い出を感じてみませんか?


この文章は、当会会報にも掲載されております。
親父のお使いで
横須賀線に乗り、鎌倉へ。
各駅停車の電車を後に痛快。
何のようであったかは忘れたが、用事を済ませて帰路。
また鈍行を後目にニンマリ。
大きな家のおばさんに駄賃にもらった絞り和紙の中の菓子を手に、
今食べようか、薄汚れた六件長屋で待つお袋に見せてからにしようか迷った。
綺麗に化粧したおばさんより、やつれたお袋の方が、美人だった。

上野駅の
地上ホームと、高架ホームに入る東北(宇都宮)・高崎線の入れ替えポイントは、元は日暮里と西日暮里の中間くらいに設置されていて、
現在は、尾久駅を出たすぐのところに変わっている。
ポイントもV字になり、のろのろ運転が俄然緩和された。
昔は上野から尾久まで9分。今は5分。上野から大宮までは30分。今は25分。
発車してから鶯谷を過ぎると俄然、スピードを出してくる。
「速くなったなー。」
昔は走って客車のデッキに飛び乗った。
今は全部がドアー。開かない。

夕闇、
市電清澄町の停留場で、父ちゃんが乗ってくる市電を何台か待った。また微かにレールの音がしてきた。
小名木川にかかる高橋の上に市電の前面が盛り上がってきた。
「来た・・・。」
ゴーーー。
橋の上では、さらに音が大きく鳴る。
高いステップのうえに、父ちゃんがいた。
高いなー。
電車から地上に下りても背が高かった。自然に手がつながる。
サーベルをさげたおまわりさんが、見ていた。
昭和15・6年、1メートルくらいの自分。7才頃。「60年前かぁ」

親父のお使いで
家が深川なので、行くときは市電で両国駅へ。両国の高架ホームからは、千葉方面への始発ホームが少し下に見えた。
蒸気機関車が客車をつないで煙を吐いていた。
「乗ってみたいな・・・。」
木更津の田舎方面ゆき。私はチョコ色の省線電車で船橋まで。
用事が済むと、食糧不足の時代なので農家に寄り、大根を2本、お袋の顔を思い浮かべながら背中に。
昔は船橋も田舎だった。昭和16・7年頃

花電車
親父に連れられて、現在の地下鉄銀座線で銀座駅から夕闇の地上に出ると大勢の人が歓声を上げていた。
群集のお尻しか見えないので親父は小便くさい私を肩車してくれた。
「わあ・・・きれいだ。」
色彩の電球と満開の花が覆い被さる電車で、何台もが通過していった。見送る人たちは提灯と旗と袖を振っていた。
当時の祝賀は和服の人が多く、私も貨物列車のある着物を着ていた。親父は腹掛と印半纏に草履といった職人スタイルだった。
「紀元は二千六百年、ああ一億の胸おどる・・・」といった歌が歌われていた。
昭和十五年頃で、五,六歳位の頃。あれからもう60年もたったのか。
兵隊さんにも運転手さんにもなれなかったが、今は模型場の駅長をやってます。

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